私自身と、私を取り巻く環境が一変したのは、
2011年3月11日の「東日本大震災」後だと感じている。

終わりを知らない「東京電力福島第一原発事故」も、大きな影響を与えていると思う。


あれから1年半が過ぎたらしい。
多くの事を記憶していると信じていた。
最近、過去記事に目を通したら全く違っていた。
私の記憶は、思い出したくないのに思い出してしまう、記憶の切れ端に過ぎなかった。
混沌とした、記憶の断片の集合体だった。
私が信じ込んでいた時系列なんて全く違っていた。

2011年3月11日を境に、ブログの記事が様変わりしていることは、何となく知っていた。

これほど違うのかと、今頃になって驚いた。


私に何があった?
私は何を考えていた?
私は何をしていた?



家族や両親とは大きな隔たりがあったのだろう。


しばらくの間、2011年3月11日からの記事を読み直してみよう。

「日記 (2011/03/11〜)」「東日本大震災 & 東京電力原発事故」 
「記事転載 いわき市発 」「♪らんらんリハビリ♪ o(^-^)o 」「♪ミュージック♪ 」 などのカテゴリーに目を通せば、自分が何を感じていたかを思い出す。
何があったのか、何をしていたのかを思い出す。
家族や両親との立場の違いも解る。

恐らく、私1人が大騒ぎしていると思われていたのだろう。


病気入院中だった私は、震度6強の地震の直撃を受けた。
避難所にいた。
怖かった、、、寒かった、、、不安だった。
両親が心配だった。

情報が欲しかった。


知人や親戚、そしてその関係者の多くは、運良く生き残った。
ケガ入院で同室だった患者達も、運良く生き残った人達だった。


放射能を心配したのは娘だけだった。
車とドライバーを手配して、かけつけた。
私はまだ、原発事故の実態を知らなかった。

知人や親戚、その関係者達が原発難民になった。
ケガ入院で同室の患者も原発難民だった。
私もガラスバッチを持っている。


地震。
津波。
原発事故。



報道規制に従わなかったTV局と新聞社の報道、映像、写真。
知人がブログにアップした写真と記事、沢山のコメント。
ネットにあふれる動画。
知人が撮った写真。


PTSDになった。
今回の災害や原発事故の被害者、各自治体職員、警察官なら珍しいことではない。

生まれて初めてアモキサンを処方された。
「減薬くらい自分でやった」
その程度の記事しか書かなかったと思う。

未だに新聞を読めば涙が出る。

自然災害は悲しい。
悲しみは薄れるかも知れない。

原発事故は悲しみと怒りが同居する。
原発事故は、何万という人間の人生を狂わせ続けている。


地震と津波は、私に悲しみを与えた。
原発事故は、「悲しみ」と「怒り」を与えた。



この2つが、私に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
でも私は、私自身の事を覚えていないらしい。


2011年3月11日からの記事を読む。
本当の事を思い出す。
そこから始める。


現在の私が置かれた立場と関連するかは解らない。






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